山口文象の半生(山口文象の事務所設立まで)


【1902-明35】(0歳) 1月10日、東京・浅草に生まれる

◎生家は浅草寺の本堂の裏手、浅草公園と吉原の中間に当たる。芸者屋、料理屋、興行館、貧民窟などの集まる一帯で育つ。
◎父勝平は大工の棟梁、祖父は茨城県石下の宮大工。
◎戸籍名は山口滝蔵。1913年に姓名判断で文三と改められるが、同名の噺家がいたため、1922年より蚊象と自称、1942年に40歳を契機に「虫を下す」の意で文象と改める。

【1910-明43】(8歳) 母方叔母の岡村家の養子となる

【1915-大4】(13歳) 東京高等工業学校(後の東工大)附属職工徒弟学校木工科大工分科入学

  ◎小学校の成績が抜群で、先生の勧めで東京府立一中(後の日比谷高校)を受験し合格する。しかし家庭の経済的事情から大工の小僧にさせようとする両親の反対に合い、入学式の翌日に退学。「すぐ役に立って飯になる学校なら」ということで、職工学校に入学が許され、大工としての基礎技術を修練する。

『実習の先生がまた非常に熱心で、さしがねの使い方はことに細かいところまで教えて くれました。それからすみつけもまた、四角い柱、丸い柱、丸い柱と丸い梁の継ぎ手の 問題、そういうものの幾何学的な墨の出し方を、図学的に本当に細かく教えてくれました 。今でもそれが非常に、私のものの考え方の基礎になっていると思っております』

【1918-大7】(16歳) 職工徒弟学校卒業、清水組(後の清水建設)定夫となる

◎父親が清水組の下請けをしていた関係で採用される。縁故のため、通常の雇員ではなく「定夫」、すなわち定雇いの人夫として、現場の主任兼雑用を務める。

【1919-大8】(17歳) 名古屋百五銀行の工事で雇員に昇格して名古屋に転属、後に退職

◎市内に新築された長野宇平次設計の銀行建築を見て感銘を受け、デザイナーを志す。

『名古屋に転勤になりまして、ますます建築の現場というものに疑問を感じるようになりました。(略)とにかく自分をエクスプレッションするという創作の方へ向かうべきじゃないかということがぼんやりつかめてまいりました』

【1920-大9】(18歳) 逓信省経理局営繕課の製図工となる

◎父親に無断で清水組を辞職し、東京に戻るが、勘当されて放浪。当時有名だった建築家中條精一郎(後の建築家協会の創始者)の事務所をしばしば訪ね、自宅にまで押しかける。各省庁への紹介状を書いてもらい、最後に行った逓信省で採用される。
◎上司の山田守を通じ、分離派建築会の活動にかかわり始める。
◎同じく上司の岩元禄からは、芸術家としてのあり方に影響を受ける。

『彫刻とか絵、音楽つまりクリエーションする人間の態度、ものの見方はどういう風にしたらいいかという基本的なことを、私は岩元先生から本当に手を取って教えるっていうんではなくて、私が後をくっついていろんなことをやっている間に覚えてきてしまった、いわば覚えさせられたという記憶がございます』

【1923-大12】(21歳) 創宇社建築会を結成

創宇社は、大卒の工学士からなるエリート集団の分離派に対し、逓信省の同僚である中卒の若手図工が中心のグループ。創立メンバーは山口の他、広木亀吉、小川光三、梅田穣、専徒栄記の5人。名称は「新しき建築を創造し、宇宙を満たす」の意。

『何かやってみようじゃないかということになったんですが、何かやってみようという ことばの裏には、われわれグループの人間の育ちというものが無言のうちにおへそのあ たりで固まってきたんじゃないかと思いますね』

【1924-大13】(22歳) 内務省帝都復興局橋梁課の嘱託技師、日本電力の嘱託技師となる

◎関東大震災で震災を受けた橋梁を復興するため、内務省東京復興局に橋梁課が創設される。復興帝都にふさわしい意匠を成すために建築家の協力が求められることとなり、課長の田中豊(東大)が逓信省に対してデザイナーのトレードを要請。山田守が嘱託で移り、山田の推挙で山口が嘱託となる。
数寄屋橋、清洲橋、八重洲橋をはじめ、数多くを手がける(100以上といわれる) 。 なお山田守は聖橋等を担当。

駒形橋スケッチ                     清洲橋スケッチ

『一週間に何十とやりました。(略)土木の連中が「きょうは横浜の港の方をやっちゃ おうか」「よし」ってわけでグーッと車で見てきてバタッバタッとスケッチをやる。そ うすると土木の方からクレームがあって、こんなのできやせん、それじゃこうしようと かああしようとか、両方でディスカッションをして決めていくのです。』

【1925-大14】(23歳) 東大(又は東京美術学校)で伊東忠太の東洋建築史の講義を聴く

◎36番教室にもぐり込み、学生1~2人とともに半年間受講。
◎茶席や寺の実測や文献収集を行い、日本建築史の原稿を書く。伊東忠太の手配で出版することになるが、震災で焼失し断念(といわれる)。

『伊東先生は私をちゃんと正規の学生だと思っている。先生は非常に熱心にやってくれ たんです。ありがたいと思っております、月謝は払わないし-』

【1926-大15】(24歳) 竹中工務店設計部技師となる

◎数寄屋橋を設計したとき、その角に計画されていた朝日新聞社本社の設計を担当していた竹中で分離派の石本喜久治が技師を務めていた関係で、設計を手伝う。

【1927-昭2】(25歳) 石本建築事務所主任技師となる

◎竹中を独立した石本喜久治に招かれる。日本橋白木屋等を担当。

◎山口の左翼的言質を嫌った石本と関係が悪化し、2年後に辞職。

  白木屋百貨店(1928)

【1930-昭5】(28歳) ロシア経由で渡欧

◎渡欧の目的は、この年に来日したR.ノイトラに紹介を受けた(といわれる)グロピウスに会うこと、社会主義運動の弾圧を避けること、ダムの技術調査、など。

【1931-昭6】(29歳) グロピウスアトリエに在籍、ベルリン工科大学大学院に学ぶ

◎当時のドイツでは外国人が働いて収入を得ることはできなかったが、グロピウスアトリエで山口だけがなぜか月300マルクの給料を得る(といわれる)。
◎文学者の藤森成吉をはじめ演劇の千田是也、学者の三枝博音らドイツ在留の進歩的文化人(共産党ベルリン支部文化部)多数と交流。
◎フランス、オーストリア、イタリア等を廻る。パリではコルビュジエに会う。

『グロピウスは非常にぶきっちょな建築家でございまして、私はそのぶきっちょなところが先生の非常にいいところだと思うのです。それで、ドイツ語を習い始めて、ドイツの雑誌なり本なりから、グロピウスのものを読んだりしてだんだん尊敬するようになりました。ぜひドイツへ行ったらグロピウスのところで働きたい、教わってきたいと思っておりました』

【1932-昭7】(30歳) ヒトラーに国外追放されたグロピウスと共に英国に渡り、マルセ イユ経由で帰国

◎政治思想犯容疑により神戸港で三宮警察に捕まり、元町の警察署に29日間拘禁、東京でデッサンをしていたときの親友である画家の小磯良平にもらい下げられ、東京に戻る(といわれる)。
◎1円50銭の所持金で東京駅に着き、帰国を待っていた日本歯科医専校長長男の中原実に出迎えられ、歯科大学の仕事を得る。

『(グロピウスが招聘された)ハーバードへ行こうじゃないかという話がありましたんですけれども、私は内地にフィアンセがおりまして、まだその時代は73歳ではございませんでしたので、人生に希望を非常に持っておりましたから、グロピウスよりはそっちの方が引力が強かったので、いま考えるとはなはだ残念なことをしましたが-』

【1934-昭9】(32歳) 山口蚊象建築設計事務所を設立

 

 


(注)『 』内は 長谷川尭+山口文象『兄事のこと』,「建築をめぐる回想と思索」,新建築社,1976 より引用